朝のベンチとテーブル

対人援助の仕事と日々

冷笑と冷笑主義について

対人的な振る舞いとしての冷笑は、見下して嘲笑うこと、という風に言い換えられる。

冷笑主義というと、これは、シニシズムのことである。

冷笑的、というと、この両方にまたがる意味合いになるかと思われる。

冷笑している場合では無い、行動すべきである、という風な呼び掛けを目にする事が近頃多くて、ひと昔前に青春を送った世代に冷笑主義が多く見られる、というような批判的な論調も目にする。

単に、自分が冷笑主義の時代に育まれた一人だからにすぎないかもしれないけれど、そんな時、ちょっと待てよ、と思うのだ。

冷笑はかっこ悪い、と、言い切ってしまう時に、そこにも思考停止はあるだろう。

単に誰かを前にして冷笑してみせるのが、あまりほめられた振る舞いでは無いことは当然として、冷笑的である事が持っているかもしれない何か積極的なものがないかどうかについて考えてみたい。

これは、そもそも古代ギリシャシニシズムがどうなりたったのか、というあたりまで遡って考えてみるべき事柄で、そう言えば『シニカル理性批判』という思想書もかつて広く読まれたわけだけど、秩序の崩壊の真っ只中でどのように生きられるのか、という課題に対するひとつの解決、というか、ひとつの戦術が、シニシズムであった、と、とりあえず言ってしまおう。

価値判断を宙吊りにすることによって初めて考えられることや、そのようにして自由になれる場合、ないし、そうしなければ立ち位置を確保できないまでに追い詰められる場合、も、あるだろう、ということだ。

尊重されるのが当然とされる価値に拠る人からすると、単に価値を保留する振る舞い自体が、価値を貶める事になるというのも、よく分かる話で、ちょっと待てよ、というだけでも、馬鹿にするな、とあしらわれる場合もあり得る。

価値を問い直すために、価値を揺さぶる冷笑的表現がなされる、という事もあるだろう。あえて冷笑せずには何かを考え始められないような場合もあるだろうよ、というわけだ。

あるいは、何かに根を張ったり、状況に埋没したりしない視点を確保しようとすることが、それだけで上から目線とか言われかねないというのも、ありがちな事態だろう。

例えば、冷笑的である事に対する冷笑もまた許さない、というほどの徹底がなされてこそ、冷笑的であることに伴う弊害は的確に批判されるのであろうけれど、おそらくそのような徹底がなされるなら、冷笑主義と同程度に、価値判断を保留する場所に導かれる事になるだろうし、その場合、結果として、冷笑するという態度が肯定される場合が見出される事になるのではないか。

何に対する冷笑なのかをカッコ入れして冷笑主義とレッテル貼った批判を行うのは一方的であるし、翻って、何事にも偏らず万事にわたって冷笑主義を貫くまでに至らない不徹底さを批判するならば、自ずと、冷笑せずにはいられない立ち位置とはどのようなものであるかが把握され、そこから始めるしかない生き方について積極的に策を練る手がかりも得られる事になるだろう。

と、いささか抽象的に書き連ねたけれど、最近、風狂という出口の事に気をとられていたりする。