朝のベンチとテーブル

対人援助の仕事と日々

哲学する声をかける介護する

縁あって、研究とは無縁の方々と、哲学書を読む会をここ数年続けている。

昨年、プラトンの対話篇『パイドン』を読んでいた。

読書会の記録を引用すると、「身体とは牢獄のようなもので、
神々が魂をそこに拘束したのだから、
魂は神の許しを得ずに勝手に身体から自由になってはならない」
という内容が語られているのを読んでいた。


高齢者介護の仕事をしていると、自ずと、認知症がまだそれほど進んでいない方で、身体の衰えを感じている方がおられるなら特に、「もう生きていたくない」とか、「死んだ方がマシだ」とか、そうおっしゃる場面に向き合う事になる。

ここ数年プラトンを読んで、読み返して、いたところなので、介護の初心者として夜勤の間ご入居のお婆さんが、そんな気弱な愚痴を漏らされたとき、ふと思いついて、「こればっかりは、お迎えが来るまで生きていなさいってことなんでしょう。」という返事をしていた。

声が届いた感触を得たので「まだやるべき事があるんですよ。
きっと」と付け加えた。

こういうやりとりを、その後何人かの方と繰り返した。
場合によるけど、前半だけで話がおわるならそれもまた良しと思う。

話が膨らんで、先に亡くなったご主人が見守ってくれているんだろうね、なんて風に話が進む事もある。

こういう話もひとつの神話なのだろうけど、今では、手元に備えたカードのひとつになっている。

この手の話は、相手の方の宗教観にもよるので、お迎えという用語がふさわしくない場合もあるかもしれない。

一歩間違えると危うい。

でも、この種の精神的なケアというのも介護の領域に含まれる事であって、そこに踏み込んでいくとき、哲学をかじった経験が多少は役に立っているよなと思う。