僕の小規模な宿命の主調音
最近、福満しげゆきが自分の中で再ブームなんだけど、昨年新作が出てたというわけで、そういう人はけっこういるのかもしれない。
前の震災のころに自分の中で第一次福満ブームが終わっちゃっていたけど、それは多分福満作品があまり売れなくなった時期だと思う。
10代の頃は、自分は世の中のペースに乗れない人間じゃないかと思って、流行に背を向けていたりしたけど、まあ、なんだかんだ、やっぱり自分も時代の子だったよな、と繰り返し思わされる、40過ぎの昨今ではある。
ここからタイトルの後半で、むしろ本題ですが。
大学一年の頃は、上京して、新しい世界に目が開かれて、楽しかったという記憶だけ残っている。
哲学専攻だった。
一年だからまだ専門の授業は概論と哲学史1だけで、どちらも古代ギリシャの専門家が先生だった。
そんなわけで、プラトンを何冊か読んだ。
饗宴やゴルギアスを、一生プラトンを読んで過ごしたいと思うほど感激して読んだ。
あと、一年生だから教養科目が多くて、出身大学は能楽研究の拠点にもなっている私大だったこともあり、能楽研究者の授業も受けた。
そんなわけで、能の公演に何度か足を運んだりした。
井筒とか、一生世阿弥の作品を追い求めたいと思うほど感激して見た。
そういえば、その後、田中優子先生のゼミ形式の授業で、プラトンと世阿弥に共通点があるみたいな馬鹿なことを書いたレポートを出した記憶もある。
それで、結局、若い頃はいろいろ気が散りがちであちらこちらから誘惑も多いし、プラトンからも世阿弥からも離れてふらふら人生を流されるように過ごしてきてしまったわけだが、振り返ってみると、自分が手をつけてきたことが行き着く先に、プラトンと世阿弥が重なって見えてきたような気がする人生後半戦のとば口ではある。
アカデミックな世界とかで頑張っても、そこには行けなかったろうなと思うので、進路の選び方っていうのは、急がば回れ塞翁が馬で正解なのかもしれない。
余談だけど、福満しげゆきと小林秀雄っていう組み合わせはタイトルを捻っていたら浮かんだ思いつきだけど、自分には非常にしっくりきた。
組み合わせを見ただけで、今日はもう満足しましたというくらいな。
良く晴れた投票日の朝
2016年7月10日、参院選の投票日、よく晴れた午前中、夜勤明けで、10時過ぎに最寄りの駅から自宅へと歩いていると、親子連れがぶらぶらと歩いているのを度々見かける。
休日とはいえ、いつもより人出が多い。
ああ、投票日だな、子供をつれて、夫婦で選挙に行ってるんだな、と思う。
なんだか少し楽しそうな雰囲気もあり、自分はもう期日前投票を済ませていたけど、行事に欠席するようなちょっとした寂しさをおぼえて、投票日に投票するのでも良かったかもな、と、ほんの少し後悔するような気分にもなっていた。
日頃は何事もないように落ち着いている住宅街で、いつもなら家の中でくつろいでいたり、どこか余所に出掛けているであろう地域の人々が、路上に出歩いていて、街並みは普段より少し賑やかになっている。
投票に向かう人々、あるいは、投票から帰る人々の様子は、親子で行楽にでかけるのとは明らかに違う。
手ぶらで、目的もないように、三々五々、それぞれゆっくり歩いているように見える。
投票に行くという事は、それほど気負う事でもなく、何か期待に胸を弾ませるような事でもなく、たいした苦労をさせられる事でもない。かといって、きびきびと済ませてしまうべき事でもない
投票所は、慣れた場所にあるとしても、投票は常日頃するような事とも違う。
人々が醸し出す、穏やかでありながら、どこか見慣れたものとは別の雰囲気は、そのような、投票するという行事が持っている性格に由来するのかも知れない。
よく晴れた投票日の朝、人々が行き交う情景を見にして、そう遠くない未来に、改憲の発議を受けた国民投票が行われるかも知れないのだな、と考えながら、徹夜で働いたあとのぼんやりとした頭で、ゆっくり家に向かっていた。
自分の改憲についての思いはといえば、改憲絶対反対というわけではないけれど、自民党の改憲案にはいろいろと問題が多いと認識している、というようなところだ。
だから、与党には投票しなかった。
その、よく晴れた投票日の朝、与党の優勢をどれだけ野党が押し返せるかものかなと益もない思案をめぐらせていた自分の胸に浮かんだのは、将来の国民投票の結果が、自分にとって歓迎したくないものだったとしても、それを国民の選択として受け入れよう、その国民的な判断について、決して恨みがましい気持ちなど抱く事のないようにしたい、というような思いだった。