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石のベンチとテーブル

対人援助の仕事と日々

良く晴れた投票日の朝

2016年7月10日、参院選の投票日、よく晴れた午前中、夜勤明けで、10時過ぎに最寄りの駅から自宅へと歩いていると、親子連れがぶらぶらと歩いているのを度々見かける。

休日とはいえ、いつもより人出が多い。

ああ、投票日だな、子供をつれて、夫婦で選挙に行ってるんだな、と思う。


なんだか少し楽しそうな雰囲気もあり、自分はもう期日前投票を済ませていたけど、行事に欠席するようなちょっとした寂しさをおぼえて、投票日に投票するのでも良かったかもな、と、ほんの少し後悔するような気分にもなっていた。


日頃は何事もないように落ち着いている住宅街で、いつもなら家の中でくつろいでいたり、どこか余所に出掛けているであろう地域の人々が、路上に出歩いていて、街並みは普段より少し賑やかになっている。


投票に向かう人々、あるいは、投票から帰る人々の様子は、親子で行楽にでかけるのとは明らかに違う。


手ぶらで、目的もないように、三々五々、それぞれゆっくり歩いているように見える。


投票に行くという事は、それほど気負う事でもなく、何か期待に胸を弾ませるような事でもなく、たいした苦労をさせられる事でもない。かといって、きびきびと済ませてしまうべき事でもない

投票所は、慣れた場所にあるとしても、投票は常日頃するような事とも違う。


人々が醸し出す、穏やかでありながら、どこか見慣れたものとは別の雰囲気は、そのような、投票するという行事が持っている性格に由来するのかも知れない。


よく晴れた投票日の朝、人々が行き交う情景を見にして、そう遠くない未来に、改憲の発議を受けた国民投票が行われるかも知れないのだな、と考えながら、徹夜で働いたあとのぼんやりとした頭で、ゆっくり家に向かっていた。


自分の改憲についての思いはといえば、改憲絶対反対というわけではないけれど、自民党改憲案にはいろいろと問題が多いと認識している、というようなところだ。

だから、与党には投票しなかった。

安倍内閣による改憲の進め方には、危惧の念を持っている。


その、よく晴れた投票日の朝、与党の優勢をどれだけ野党が押し返せるかものかなと益もない思案をめぐらせていた自分の胸に浮かんだのは、将来の国民投票の結果が、自分にとって歓迎したくないものだったとしても、それを国民の選択として受け入れよう、その国民的な判断について、決して恨みがましい気持ちなど抱く事のないようにしたい、というような思いだった。


試験放送

都内の民放AMラジオ局が、12月からFMでも放送を始める。ワイドFMと呼ぶのらしい。

すでに、試験放送が行われていて、音楽だけかかっている事が多い。

試験放送で、実際に聞こえ具合を確認する仕事をしている人も居るのだろうけど、良く知らない。

高校生の頃だったか、当時住んでいた長野県で新規にFM局が開局する事になり、試験放送をしていた頃に、聞いていたのを思い出した。

ちょっと時間軸がずれてるみたいな、異世界から紛れた電波みたいな、独特の感触。

考えてみると、民放ラジオ局の試験放送を聞く経験というのは、一生のうちに何度もある事ではないのだよな。

まあ、未来の行政の在り方次第では、そうでない事も無くはないのかもしれないけども。

この間、某局の試験放送で、延々サザエさんの劇伴音楽が流れていることがあった。

そういうチャンネル、ほしいです。

本を借りて読むとか

主に図書館で借りて読んだ本の感想を最近はてなハイクにメモしています。

http://h.hatena.ne.jp/yanoz/

誰かの役にも立つつもりで書き残しておくと、自分にとっても忘備録として有益であろうと。

これは、劇評書いてた頃の教訓。

知らない人に説明するように書いておかないと、後で読んだときに、何の事だかわからなくて、何も想起できない。

説明しないように書いてこそ記録できる事もあるかもしれないという可能性は、差し当りちょっと脇に置いておくとして。

ハイクのエントリーをずっと遡って読み直してみて、ウェブで読んだ事ってすっかり忘れてるな、と思ったり。

本の方が記憶に残るようである。

と、再度、想起できない事の積極性というような話を、脇に置いておきたい。

それから、読書会のメモもしてましたが滞ってますね。

買ってひとりで読んだ本については何も書いていない事が多い。




冷笑と冷笑主義について

対人的な振る舞いとしての冷笑は、見下して嘲笑うこと、という風に言い換えられる。

冷笑主義というと、これは、シニシズムのことである。

冷笑的、というと、この両方にまたがる意味合いになるかと思われる。

冷笑している場合では無い、行動すべきである、という風な呼び掛けを目にする事が近頃多くて、ひと昔前に青春を送った世代に冷笑主義が多く見られる、というような批判的な論調も目にする。

単に、自分が冷笑主義の時代に育まれた一人だからにすぎないかもしれないけれど、そんな時、ちょっと待てよ、と思うのだ。

冷笑はかっこ悪い、と、言い切ってしまう時に、そこにも思考停止はあるだろう。

単に誰かを前にして冷笑してみせるのが、あまりほめられた振る舞いでは無いことは当然として、冷笑的である事が持っているかもしれない何か積極的なものがないかどうかについて考えてみたい。

これは、そもそも古代ギリシャシニシズムがどうなりたったのか、というあたりまで遡って考えてみるべき事柄で、そう言えば『シニカル理性批判』という思想書もかつて広く読まれたわけだけど、秩序の崩壊の真っ只中でどのように生きられるのか、という課題に対するひとつの解決、というか、ひとつの戦術が、シニシズムであった、と、とりあえず言ってしまおう。

価値判断を宙吊りにすることによって初めて考えられることや、そのようにして自由になれる場合、ないし、そうしなければ立ち位置を確保できないまでに追い詰められる場合、も、あるだろう、ということだ。

尊重されるのが当然とされる価値に拠る人からすると、単に価値を保留する振る舞い自体が、価値を貶める事になるというのも、よく分かる話で、ちょっと待てよ、というだけでも、馬鹿にするな、とあしらわれる場合もあり得る。

価値を問い直すために、価値を揺さぶる冷笑的表現がなされる、という事もあるだろう。あえて冷笑せずには何かを考え始められないような場合もあるだろうよ、というわけだ。

あるいは、何かに根を張ったり、状況に埋没したりしない視点を確保しようとすることが、それだけで上から目線とか言われかねないというのも、ありがちな事態だろう。

例えば、冷笑的である事に対する冷笑もまた許さない、というほどの徹底がなされてこそ、冷笑的であることに伴う弊害は的確に批判されるのであろうけれど、おそらくそのような徹底がなされるなら、冷笑主義と同程度に、価値判断を保留する場所に導かれる事になるだろうし、その場合、結果として、冷笑するという態度が肯定される場合が見出される事になるのではないか。

何に対する冷笑なのかをカッコ入れして冷笑主義とレッテル貼った批判を行うのは一方的であるし、翻って、何事にも偏らず万事にわたって冷笑主義を貫くまでに至らない不徹底さを批判するならば、自ずと、冷笑せずにはいられない立ち位置とはどのようなものであるかが把握され、そこから始めるしかない生き方について積極的に策を練る手がかりも得られる事になるだろう。

と、いささか抽象的に書き連ねたけれど、最近、風狂という出口の事に気をとられていたりする。




朝のドラマ

自分が勤めているフロアでは、食事時はテレビをつけることになっていて、なんとなくNHKで、朝昼とドラマがながれている。 今月新しく始まったドラマは、「時代劇だね」なんて声が聞こえたりして、このあいだおわったものより反応よさそう。 『花子とアン』をやっていたときには、女学生時代に白蓮さんの授業をとったことがあるという方がグループホームに居て、「こんなに美人じゃなかったわね」なんて話を、何回か繰り返しうかがって、そのたびにスタッフもあわせて笑ったりした。 現代ものより、戦前戦後を舞台にしたドラマの方が、ご高齢の方々との話題の種にはしやすいというわけだった。

哲学する声をかける介護する

縁あって、研究とは無縁の方々と、哲学書を読む会をここ数年続けている。

昨年、プラトンの対話篇『パイドン』を読んでいた。

読書会の記録を引用すると、「身体とは牢獄のようなもので、
神々が魂をそこに拘束したのだから、
魂は神の許しを得ずに勝手に身体から自由になってはならない」
という内容が語られているのを読んでいた。


高齢者介護の仕事をしていると、自ずと、認知症がまだそれほど進んでいない方で、身体の衰えを感じている方がおられるなら特に、「もう生きていたくない」とか、「死んだ方がマシだ」とか、そうおっしゃる場面に向き合う事になる。

ここ数年プラトンを読んで、読み返して、いたところなので、介護の初心者として夜勤の間ご入居のお婆さんが、そんな気弱な愚痴を漏らされたとき、ふと思いついて、「こればっかりは、お迎えが来るまで生きていなさいってことなんでしょう。」という返事をしていた。

声が届いた感触を得たので「まだやるべき事があるんですよ。
きっと」と付け加えた。

こういうやりとりを、その後何人かの方と繰り返した。
場合によるけど、前半だけで話がおわるならそれもまた良しと思う。

話が膨らんで、先に亡くなったご主人が見守ってくれているんだろうね、なんて風に話が進む事もある。

こういう話もひとつの神話なのだろうけど、今では、手元に備えたカードのひとつになっている。

この手の話は、相手の方の宗教観にもよるので、お迎えという用語がふさわしくない場合もあるかもしれない。

一歩間違えると危うい。

でも、この種の精神的なケアというのも介護の領域に含まれる事であって、そこに踏み込んでいくとき、哲学をかじった経験が多少は役に立っているよなと思う。







常套句

職場のグループホームで、入居されているお年寄りが、「腰が痛くて」とか、「つらい」とか、慢性的にかかえている体の不調を訴えるようなとき、黙っているよりましか、というくらいな気持ちで「生きている証拠ですよ」と答えている。

誰に教わったわけでもなく、はじめてそういう言葉が出てきたときは、自分の経験とか考えから生まれた何かだったろうけど、今ではカードとして常備されているような常套句のひとつになっている。

「人の気も知らないで」とか、憎まれ口が返ってくることもあるけど、それはそれで、前向きな反応と受けとることができる。

このあいだ、「歩くだけで息があがっちゃった」とおっしゃるおばあちゃんに、何気なくこの常套句を使ったところ、「やっと生きている証拠だね」と返された。その機知の働きに、人柄を感じる。

こういう事の積み重ねに、ちょっとした喜びを抱きつつ、介護職員として働いている。